瀬尾まいこ『温室デイズ』角川書店

温室デイズ

いつものように眠れなくて、けど眠いという矛盾した夜中過ぎに読んでいました。「いじめ問題」を取り上げているから、という理由などどこにもなく、瀬尾まいこだから読んだだけです。

もう図書館に返してしまったので、引用部分は適当です。これから読む人は以下を読まないほうがいいと思います。

やはり現役の中学生教師という立場なのか、「いじめ」というものがどういうものかライブな感覚として読めた気がします。もちろん、そのライブ感だとて、同時代的な感覚として受け止めたことだとて、フィクションというフィルターを通している以上、それなりのバイアスはあるのでしょう。しかし、その説得力は一つの評価に値するのかもしれません。

主人公は2人。どちらにも、大きく頷いてしまいました。どんなにいじめられても、どんなに足が重くなっても、教室へと通い続けるみちる。作者は電車の中吊り広告(だったかな?)で「戦う」と表現していましたが、それは間違ってはいません。周囲の人々が「もう行かなくなっていいじゃないか」と言葉を投げ掛けることに対して、「何で?あたしは健康だよ。行かない理由がないよ」という感じで切り返す、その様相は客観的には「戦う」という表現がしっくりきます。ただし、それは彼女の自意識のレベルでは違うということ。教室に行くということしか、学校に行くことしか「知らない」(もちろん様々なものの存在を知ってはいるのでしょうが)という彼女にとっては、「行く」しかないのでしょう。彼女自身の行動へと移るそのプロセスに、ある種の恐怖感を覚えると同時に、彼女への諦観ともいうべき感情が出てきたのも否めません(彼女自身が諦観を抱いていないのが、ますます・・・)。

もう一人の主人公は優子。いじめられるみちるを見ているうちに、教室に通えなくなった。この彼女の存在が物語としての深みを生じさせていると思います。別室登校、カウンセラー、学外施設と次々とたらい回しにされていくことに対して、彼女自身が諦めの中で「逃げた子供に対しては、とことん受け皿を作っている」と受け止めていることが、こちらも遣る瀬無い。みちるに対して、「平和だよ。恐ろしいぐらいに平和。だから来なよ」と言うことに対し、みちるの視線からは決して別室登校にている彼女が楽しそうに見えなかったことが一つの証左でしょう。

どちらがいいというわけでもなく、何がどうというわけでもなく、何も明確な答えを提示しているわけでもありません。「温室デイズ」というタイトルが指し示しているように、学校=温室と表現していることは、彼女ら自身にとっては実感があるようで、でも客観視することができない概念でもあります。その複雑さと重層性を2人の少女の視点から、我々に提示してくれた作品なのかもしれません。そして2人の少女が、互いに通わせる認識の差異が、また読み手を頷かせてしまう。

難しいな。あっさり読めるのですが、難しい。最近、頭がかたくなりました。とりあえず「それでもやっぱり温室なんだよ」とか「学校は社会の縮図」とか、したり顔で言うやつにはなりたくない。