宮部みゆき 『ブレイブ・ストーリー』 上中下 角川文庫

ブレイブ・ストーリー (上)

今晩、「またトトロかよ」とテレビを前にして思った人は多数いるかと思います。ご心配なく、僕もそうです。ものの10分程度で飽きてしまって、この『ブレイブ・ストーリー』を読んでいました。しかし、映画版を見に行く必要はありません。GONZOがまたやってしまった上澄みのみを抜き取って作った映画です。ドラえもんの中にあるオイルみたいな感じ。


以下、引用等があるので、注意。


この作品の重さは上巻のほとんどを費やして語られる現実世界の部分でしょうか。リアリティで以って徹底的に描かれた「現実」があることで、結果としてその後に出てくる「幻界」が見事な逃避先のように思えてしまいます。それは主人公であるワタルも同様であったと見え、

「おぬし、現世に残してきた母親のことは気にならぬのか?」
 ワタルは驚いた。「母さん――ですか?」
「おぬしが幻界にいるあいだ、現世でも時が停まっているわけではないのだぞ。母親がどうしているのか、心配ではないのか?おぬしが姿を消したことでどれほど心を痛めていることか。顔を見せて、安心させてやりたいとは思わぬのか?」
 言われてみれば、本当にその通りなのだ。今の今まで――目の前に展開する事柄があまりにも新鮮で驚きに満ちていたので、母さんのことが心から抜け落ちていた。
本書上巻423ページ

と描かれています。読者はワタルと見事にシンクロしてしまっている。それだけ、現実世界の描かれ方が一つのステレオタイプ的な問題でありながら、それでも尚且つ悲惨と感じてしまうものであったが故に、ファンタジー世界へ飛び込んでしまったときの安心感が存在し得るのではないでしょうか。勇者の剣。お試しの洞窟。魔法使い。最初に旅人を導いてくれるキャラ。全てが造形されたゲームのような舞台であるがゆえに、ゲーマーとしての宮部みゆきと共通の文化認識が可能である人にとっては簡単に入り込めてしまうものになっています。それが逆説的には作者の技ともいえます。

さらに秀逸なのは、幻界の人々自身が「幻界は現世の人々の欲望を写したものである」ことを理解していることでしょう。その後、ワタルが数々の旅をしていく中で、幻界は決して浮ついた世界ではないことが理解できます。さらには人種問題、宗教、帝国等々の現実世界の鏡のような様相であることが、判明してくるとともに、ワタルは一つずつ芯の通った人間になっていきます。時には、回りを見ながら、立ち止まりながら、諦めながら、仲間の死に直面しながら、それでも前に進んでいくワタルとともに旅を続けているうちに、次第に主人公に肩入れしつつある自分自身がいます。我に返ったときにふと笑ってしまうほどに。その現実世界との対比ではなく、親和性をもった幻界であるということはラストにおいて帰結します。

そして思い出す。僕はもうハイランダーじゃないんだ。勇者の剣もない。宝玉の力も消えた。
僕は三谷亘に戻った。
本書下巻468ページ

亘は微笑んだ。心のなかに、温かなお湯が満ち溢れるように、優しさと感謝と、それと名づけようのない輝かしいものが広がっていくのを感じた。
急にしっかりしたわけじゃないんだよ、伯父さん。僕はずぅっと旅をして帰ってきたんだ。
本書下巻472ページ

「お父さんが・・・・・・帰ってこなくても?」
母さんが小さく訊いた。
「うん」と亘はうなづいた。「だって、世界はまだ残っているんだからさ」
僕の幻界。僕の現世。
本書下巻482ページ

結果として彼は勇者ではなくなるわけですが、幻界と現世は決して解き分かれた世界ではないというこの結末は本当に秀逸で、読み終わったときには思わずうなってしまいました。最近、箱庭のようなファンタジー世界を描いた作品をよく目にするようになってきた気がしていたために、この宮部みゆきによって突きつけられた命題をどう受け止めるか。大きな問題だと思います。ある意味で、至極、当然のことであるがゆえに。

という以上のことを映画版は全く考えていないような気がします。結果として子供から大人までとターゲットを複数に散らばせたがために、死のシーンや人種の問題、宗教の確執などを全て無くしてしまったことが逆にファンタジー性のリアリティを失った原因だと思います。